« ありがた迷惑な「世界遺産登録」〈12月〉 | トップページ | 染野夫妻コレクション〈12月〉 »

2009年12月 7日 (月)

閑事を認めて実事となす むべなるかな多忙〈12月〉

 今年も早いもので、いつの間にか12月になってしまいました。
今年の3月、確定申告の業務が終わってホッとしたのはついこの間だと思っていたのに、また、その時期が巡って来てしまったという感じです。
年をとるにつれて時の経つのがどんどん速くなっていくように思えるのですが、私だけなのでしょうか。

 1年がだんだん速くなるように感じられるのは何故なのでしょうか。
まず考えられることはワクワクしながら待つということが少なくなったことではないでしょうか。
小学校の頃を思い出すと、何かを待ち望むということが多かったように思います。
正月、遠足、運動会、親とどこかに遊びに行くなど心待ちにする種はいくつもありました。こうした日は凡々とした日々「ケの日」の中に点在する「ハレの日」であり、ハレの日は特別の服を着、特別のおいしい料理を食べる日、特別のところに行ける日として心待ちにする日であり、私たちはそうした日の来るのを心待ちにしていたものです。
待つ身に待つ時間が長いのは当然のことであり、そうしたことで一年が長く感じられたのではないでしょうか。
しかし世の中が豊かになり、「ハレの日」と「ケの日」とのケジメがなくなり、「特別のおいしい料理を食べたり、特別の服を着たり」することのなくなった現在、果たして今の小学生にも我々の頃のように待ちわびるということが同じようにあるのか聞いてみたいものだと思います。
待つことの少なくなってしまった今日この頃、日々が速く過ぎ去っていくのは仕方の無いことなのかとも思います。

 もう一つ考えられることは多忙ということです。
多忙のため一日一日の変化を感じられず、毎日毎日が日常の中に埋没してしまうということが考えられます。
変化が少ないということは一日一日の区切りがなくダラダラと毎日を過ごしているということです。
しかし本人はダラダラとしているという感じはなく、毎日忙しく仕事に追われている感じで生活しています。
 やっている仕事を整理してみると、あまりたいしたことはやっていません。
なぜ「多忙」なのでしょう。

幕末の儒者佐藤一斎の「言志四録」の中に次の一文があります。
「今人(こんじん)おおむね口に多忙を説く。其の為す所を視るに、実事を整頓するもの十に一、二、閑事を料理するもの十に八、九、又閑事を認めて以って実事と為す。宜(うべ)なり、其の多忙なるや。志あるもの誤りてこの窠(か・穴・巣・決まった型)を踏むこと勿(なか)れ」

言うことは次の通りです。
「今の人は口を開けば忙しい忙しいという。しかしやっていることを見ると大事なことをきちんと処理しているのは十の仕事のうち一つか二つで、あとの八つか九つはどうでもいいようなことをやっている。それなのにこのどうでもいいようなことを、これも大事な仕事なのだと言う。これでは忙しいのは無理もないことである。志を持ち何事か成し遂げようと思っている人間はこんな間違いをしてはいけない」

いわれてみるとその通りです。
私は休みの日には机の前に座るとその日一日にやらなければならないことを書き出します。
書き出したものを見ると一斎の言うところの閑事が何と多いことか。
しかし閑事はやっておかないとその後支障が出るので、やらざるを得ません。
それらは、緊急度は高いけれど重要度の低い仕事に分類されるものです。
しかしその中には閑な時にやっておけばよかったのに、その時は緊急度が低いからといって放置してきたものもあります。
その結果、緊急度が高くなってやらざるを得なくなったものも結構あります。
そしてその結果「閑事を認めて実事となす」です。
やらざるを得ないことであるから、重要なことで手を抜くわけにはいきません。
その結果多忙になってしまい、毎日追いかけられて仕事をするということになります。
これを避けるには月に一度はやるべきことを書き出し、それらを急がないでよいことと、急いでやるべきこととに区分し、各々を重要度の高いことと重要度の低いこととに区分することです。
そうすることによって、自分の仕事の全体像が把握でき、どこから、どう手をつけてよいかがわかるようになります。

 これは仕事だけでなく、他の事にも通じるようです。
買い求めた本なども、重要度は低いけれど読み易い本が先になり、重要度は高いけれど読むのに気力を入れて読まなければならないものはどうしても後回しになってしまいます。その結果一般知識は増えても専門知識は増えないということになってしまいます。
 これをやらない限り「閑事を認めて実事となす窠(か・穴・巣・型)」を抜け出すことはできないのではないでしょうか。

「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」をあらわし、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。
ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。

ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった。
ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(折り目・節
目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。
これに対し普段着を「ケ着」といったが、明治以降から
言葉として使用されなくなった。
また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代までさかのぼると
、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。

12月 7, 2009 2.チャレンジ |