« CO2の排出戦争〈10月〉 | トップページ | 栗田美術館(栃木県足利市)〈10月〉 »

2009年10月 7日 (水)

フジヤマのトビウオの死〈10月〉

Photo
古橋廣之進(1928~2009)静岡県浜名郡雄踏町生。日本大学法文学部政治経済学科卒業。現役引退後は大同毛織に入社。その後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任

 水泳の古橋廣之進氏が亡くなりました。80歳でした。
ローマで行われている世界水泳の最中に現地で亡くなったとい
うのもなにかの因縁でしょう。
本人もきっと本望だったことと思います。

 小学校の時、村の篤志家がプールを作ったのがきっかけで水泳をはじめ、小学校6年の時には100mと200mの自由形で学童新記録を樹立し、「豆魚雷」と言われました。
しかし戦争中の勤労動員の際高射砲弾のネジ切りをしている最中に
、歯車に左手を挟まれ中指の第一関節から先を失ってしまいました。
日大進学後に水泳を再開します。
1948年のロンド
ン五輪は、交戦国だった日本は国際的なスポーツ大会から締め出されていたため出場できませんでしたが、五輪の日程に合わせて開催された日本選手権では男子1500mの自由形で世界記録の18分37秒で泳ぎました。
ロンドン五輪の優勝タイムは19分18秒でしたので、プールの長さが短いのではないかと疑われました。

合計33個の世界新

 その後、日本の水泳が国際舞台に復帰し、8人の日本人選手が1949年の全米選手権に出場しました。当時の日本は占領下にあり、ビザが出ないため、マッカーサーに面接のうえでサインをもらいました。
マッカーサーは「堂々と戦ってア
メリカをやっつけてこい。でないと帰りのビザは知らんよ」と気合を入れられました。
全米選手権では自由形(リレー
を含む)6種類中5種目を制し、延べ9つの世界新を出しアメリカを圧倒しました。
特に古橋は400m、800m、1500m自由
形の三種目とも世界新記録を樹立し、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The fling of fish of Fuji Yama)と呼ばれました。
彼の活躍は戦争で疲弊しうちひしがれていた国民に希望や勇気を与えました。
彼は合計33回の
世界新記録を出しました。
しかし、1950年の南米遠征の際、宿泊先のホテルでボーイが「ちゃんと消毒しているから大
丈夫」というので瓶の水をコップ一杯飲んだことから、アメーバー赤痢にかかり、その後体調が戻らず、最初で最後のヘルシンキ五輪は、体調不良のため、400m自由形決勝では8位に終わりました。
2008年文化勲章を受章しました。

中指のハンディは自らの工夫で克服

 古橋のすごいことは左手の第一関節から先がないのにもかかわらず、そのハンディを克服して、世界新記録を出しつづけたことです。
左手でかいた時の水の漏れをカバーするために右腕を鍛えて強化し、息つぎを右から左に変えて、左手よりも右手を長
く使えるフォームに変えました。
当時日大水泳部には監督もコーチもいなかったので、左手のハンディを克服する方法
も自分で考えました。
当時の仲間の選手もみな自分で泳ぎを工夫し、練習プランを立てていましたので、そうした独自
の工夫も特別のことではなかったのです。
「左手の事故がなかったらもっといい記録が出せたにではないか」ということに対しては「ハンディキャップがあった
から、他人より努力しなければと意識し、人一倍努力をしたから記録が出せたとも考えられる。
もし指が揃っていたら
惰性で漫然と泳いで普通の記録しかだせなかったかもしれない」と答えています。
ハンディを意識し、それを克服する
過程の中に工夫が生まれ、工夫に熱中することにより集中力が生まれたということも考えられます。
常々「受身の姿勢
ではダメだ。自ら工夫をこらす、自主的なトレーニングをするように」と主張されていたのは、自らのハンディを克服した目から見ると、現在の選手達の姿勢がはがゆく映るのかもしれません。

 しかし現役時代、左手のケガのことは一言もしゃべっていません。
現在なら本人がしゃべらなくてもマスコミが探し
出し、「左手の克服」というようなドキュメンタリーでも生まれることでしょうが、そんなことをしゃべるのは「女々しい」というような気風がその頃にはあったためかもしれません。

1日1000Kcalで毎日30,000mの猛練習

 「魚になるまで泳げ」というのは古橋氏の口癖でした。
泳ぎこむことによって体が自然に覚えこむからです。
大学時
代は戦争直後の極端に食糧事情の悪い時代でした。
口に入るものはサツマイモかカボチャくらいで一日のカロリーは
1000kcalにもとどきません。
必要カロリーの1/3しかとれないのです。
そんな栄養状況なのに1日20,000m、多い日は
30,000mも泳ぐのですから想像を絶する練習量です。
水泳合宿所の友人に「おい古橋、お前はまもなく死ぬぞ」と言わ
れた程です。
来日したアメリカの生理学者も「そんな栄養で泳いで記録を出すなんて理屈が通らない」と驚いていまし
た。
 
 古橋の成功を読んでみると、トヨタやホンダや松下の成功と同じだということに気づかされます。
戦後の焼け野原の
中、まともな設備も材料もない中から出発し、苦難のうちに努力と工夫をつづけ、ある時は絶望し、ある時は成功に喜び、一つ一つ実績を積み重ねながら現在の姿になった彼らもまた、もう一人の古橋廣之進だったといえるのではないでしょうか。
古橋氏の冥福を祈ります。

10月 7, 2009 2.チャレンジ |