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2008年7月 6日 (日)

たった1人の反乱〈7月〉

 いよいよ北京オリンピックが近づいてきました。
チベット紛争に端を発した、世界各地での聖火リレー妨害事件も四川地震の大被害の報道にかき消されて、いつの間にか人々の関心から外れてしまいました。
中国政府には地震が天の助けのような形になり、世界中からの関心と同情を集め各国元首たちの開会式出席拒否の報道も全く消え去ってしまいました。
ましてや日本は親中派の福田首相の下で、オリンピックに対する拒否反応などは全く見られません。

 そんな日本で早々と北京オリンピック不出場を決めた企業があります。
それは埼玉県富士見市の有限会社辻谷工業の辻谷政久さんです。
1996年のアトランタから2004年のアテネまで3大会連続で辻谷工業の造る男子砲丸投げの砲丸は、金、銀、銅メダルを独占しており「魔法の砲丸」と呼ばれていました。
しかし、辻谷氏は「オファーは受けたけれど北京には送らないことに決めた」と言います。

それは2004年に起きたサッカー、アジアカップ決勝(北京)でのすさまじい反日感情が原因です。
「政治的な感情を持ち込み、マナーの悪さでスポーツ大会を侮辱した。私にとって砲丸は子供のような存在。大切な子供をそんな場所に行かせたくない」と言います。
周囲は残念がるが辻谷氏の決意は固く翻りません。

 トップ選手から信頼されるこの砲丸の特色は重心が砲丸の真ん中にあることです。
重心の位置次第で1mから2mも飛距離が違います。
一流選手になると持っただけで重心の位置が分かるといいます。
わずかな距離の差を競う選手にとって砲丸の重心は、生命線です。

■アトランタ大会以後3大会連続メダル独占

 砲丸は男子用が16ポンド(7.26㎏)です。
ボウリング場にあるハウスボールの一番重いのと同じです。
一流選手はこの重さのものを20m以上飛ばします。

 オリンピックに出場する選手にはマイボールはありません。
競技場に置かれた公認球の中から気に入ったものを選んで投げます。
公認球に初めて採用されたのは88年のソウル大会でしたが、その時には誰にも使ってもらえませんでした。

しかし、92年のバルセロナ大会では、32個納めた砲丸のうちサブ会場に備えられていた砲丸16個が全て持ち去られるという「砲丸紛失事件」が起こりました。
あまりの使い勝手の良さに選手が持ち帰ったのです。
96 年のアトランタからは辻谷氏の砲丸の独壇場となり、それ以降3大会連続の金、銀、銅という快挙をなしとげました。

 砲丸は球体の鋳物を旋盤で削って作ります。
原料の鋳物は、様々な材質が混じっているため、冷却過程で比重の違いから沈殿が生じ重心が球の重心からズレてしまいます。
そこで旋盤で削る際に出る「音」と「光」と「手の感触」で調整していきます。
最後は「勘」としか言いようがないとのことです。
こうしてアテネ大会では重心の誤差ゼロにまで仕上げました。

■3年で3億円のオファーを断る

 こうした辻谷氏の腕に目をつけた砲丸王国のアメリカの企業が週給1万ドルで技術指導して欲しいと申し込んできました。
断ると条件は3年契約で3億円にまで上がりました。
いっそアメリカに渡ろうかとも思いましたが「日本の技術が流出して、中小企業の空洞化が進む。高いレベルの砲丸ができるまでには多くの人の世話になった。その人たちを裏切れない」と断ってしまいます。

 「技術の伝承はものすごく難しい。マニュアル化したこともあるが今月作ったマニュアルが来月には通常しない。他人の作業を見て、自分で習得できる人間だけが技術を受けつぐことができる。経験するしかない」と辻谷氏はいいます。

 辻谷氏の物づくりにかける執念もすごいことですが、輝かしい成果と世界中からの要望があるにも拘わらず、自らの信ずるところに従い、これを断固断って、オリンピック不出場を決め、これを押し通す信念の強さに感心させられます。
辻谷工業は75才の辻谷夫妻と3人の息子と娘の6人の家族経営です。

7月 6, 2008 2.チャレンジ |